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ウクライナプレス評

★『Banzai,Sensei!』(BBC 2000年6月3日号)

 国際演劇フェスティバル『キエフの春2000』で輝いていたのは、東京から来た5人の女性クラウングループ『五人囃子』だった。フェスティバル終了後彼らはウクライナ巡業の旅(トゥルスカヴェッツ、リボフ、クリヴォイ・ローク、マリーウポール、ドニェツク)に向かった。
 グループの名称『五人囃子』は、十分にクラウン的だ。実際は、5月3日に行われる日本の女性のためのお祭りに行われる伝統的な演奏会に参加する5人の音楽家(しかしこれは男)のことを言う。
 『五人囃子』の魅力的でエネルギッシュなアーティストは、演し物のなかで、マイム、アクロバット、ダンス、ジャグリング、ヴォーカルの技術をミックスしてみせた。最近東京で開催された国際クラウンフェスティバルのオーガナイザーで、プロデューサーの西田敬一氏は、この集団はキエフの劇団『ミミクリーチ』の後継者であると語った。しかしちょっと目を細めて見てみれば(日本的に)、なにか非常に似たものがあるように思えると、彼は言いたかったのではないだろうか。なによりもこの『五人囃子』は、ウラジーミル・クリューコフ(ヴァロージャさんと、日本人たちは呼んでいる)の影響のもとにつくられたものなのだから。

─さて、クリューコフさん、このエキゾッチックなプロジェクトは、どんな風にして始まったのですか?

「西田さんが働いている会社のプロデューサーのひとりが、80年代末に『ミミクリーチ』が公演していたモスクワに来ました。そこで彼は我々の番組を見て、ビデオに収録し、そして半年後に私たちを日本に招待してくれたのです。
 この時の私たちが非常に心配していたことをよく覚えています。日本人はみんな慎み深く、ふいに馬鹿丁寧に微笑み、お辞儀をして、帰ってしまうのではと怯えていたのです。ところが、始まってすぐに笑い声が聞こえました。この時私たちは、これは私たちの観客だ!とすぐにわかったのです。この日本公演での大成功のあと、毎年のように私たちは日本に招待されました。およそ10年で私たちは日本のほとんどの都市を回ることになりました。そしてこのあとに女性だけによるクラウンのグループをつくろうという突飛よしもない提案を受けることになったのです」

─あの有名な『ミミクリーチ』はいまはどうしているのですか?

「『ミミクリーチ』は創造的な可能性を使い果たし、昨年その活動を終えました。おそらく私たちはお互いに消耗してしまったのでしょう。彼らと一緒に以前のように何かアイディアを練ったり、働こうという希望をもつことができなくなりました。グループをなんとかして維持しようと努力したこともありますが、これはあまり効果がありませんでした。新しいエネルギー、新しいアイディアが必要だったのです。
 『五人囃子』との仕事は精神を鼓舞してくれます。いま、彼らは私なしでもやっていけます。いまはキエフのサーカス学校の中で、新しいマイムのグループをつくろうとしています。すでにメーテルリンクの『盲人たち』に基づいた『愚か者の船』という作品づくりの作業に入っています」

─話を戻しましょう。私たちの国の演出家は当然のことのように西欧に行こうと必死になっています。あなたは日本に行きました。これは原則的な選択だったのでしょうか?

「いいえ、私は決して海外に逃れようとは思ったことありません。アイディアは海外公演の時に、自然に浮かんできます。日本には良く行きました。そしてそこでワークショップをしたり、講演をしたこともありますし、ハイレベルの人たちを指導したこともあります。日本人たちは、彼らが必要なことを実現できるスペシャリストとして私を見ていました」

─もっと先に話を進めましょう。五人囃子は他の国でもつくることができますか?

「もちろんです。同じようなグループはいま全世界で立ち上げることができます。『五人囃子』は多くの関心を集め続けていくでしょう。今年日本で、世界で初めて国際クラウンフェスティバルが大成功のもと開催されました。ここで五人囃子のメンバーたちは、自分たちがあちこちから公演の招待を受け、この人気がさらに成長することに気づいたはずです。いずれにせよ、彼女たちがいたるところで、いま私のことを、芸術監督と呼び、誇りをもって私の名を呼ぶことに感動しています」

─さて、次ですが、あなたは日本で寂しくありませんでしたか?

「彼らはすべて考えてくれたのです! 祖国を離れて寂しく感じないように、私を家族と一緒に呼んでくれたのです。そのあと、日本でつらいとかよかったとか考えるひまがないくらいたくさんの仕事がありました」

─どうして『五人囃子』のリハーサルは、日本の村で行われたのですか?

「彼らはほんとうに仕事好きで、勤勉であったか、驚くべきことです。しかし彼らは礼儀正しく、素朴で、横柄なところがありません。彼らはとても情が深いのです。
 これは多くの点で、私たちと似ています。敏感で注意ぶかい人たちです。いまこんなことはめったにないことではないでしょうか。生活が社会での関係において厳しく接するように強いています。私たちはこの点で西欧を模倣しようとしているといえます。友人でさえ、家へではなく、レストランやカフェに招待しようとします。これはお互い遠ざかることになるのではないでしょうか。
 西欧では交流はとても表面的ですが、日本人はまだ開けっ広げのままです。彼らは私たち、ウクライナ人もロシア人も尊敬し、私たちの大変さを理解しています。だからこそ彼らはウクライナで『五人囃子』のスタイルで女性のクラウングループをつくろうとしているのです。これ以外にも、彼らはもしこうした劇団がそんなにないのなら、私たちが、何らかの団体や協会をつくれることも理解していますし、一緒にフェスティバルに参加することもできるでしょう」

─仕事上で衝突はありましたか?創作上のことでもいいのですが

「アーティストたちとはありました。これはさまざまなことから起きました。例えば、メンバーのひとり、ミキが、ジャグリングの番組で私が彼女のことをあまりつかってくれないと考えるとすると、私は彼女に対して他の人たちよりあまり関心を示さないようにします。これは私たちでも同じ事ですが、役者のエゴイズムにとってはたやすいことではありません。
 問題は、彼ら全員が、集団としての自覚、公正さを強くもつことなのです。つまりなによりも平等でなければならず、分け隔てをしてはならないということなのです。もしもひとりのアーティストがなにか大きいことを得たとするなら、同じよう全員がこれを獲得しなければならないのです。
 例えばアクロバットの技術を誰かひとりがマスターしたとします、しかしこれはみんな同じことをマスターしなければならないのです、たとえ作品に必要なくても平等にしなくてはならないのです。この場合ミキは、他の番組でさらに多くのことをするようになる、こんな妥協点を見いだすようになるのです」

─役者たちが演出家を愛することは当然だと思うのですが、これがなかった時はありますか?

「彼らは何よりもわたしのことをスペシャリストとして受けとめていました。専門家だということへの大きな信頼がありました。友情、これについては買えるものではありません。私がキエフに戻ってから、彼らは手紙をくれました」

─ インターネットですか?

「いいえ、手で書いたもので、写真が一緒に同封してありました。彼らはコンピューターが嫌いなようですし、テレビもあまり好きじゃありません。あまりにも巧みにつくられた現実は、人間のなかに、人間が生きている世界とは相反するものをつくりだしてしまうのです」

─最後の質問は、エキゾチズムについてです、例えば日本の料理についてですが・・・

「日本料理、これは文化の一現象として学ばなければなりません。日本人にとって食事、これはまさに芸術です。日本の食事はたまに40とか60品からなる時があります。すべては正しく組み合わせられ、味付けされなくてはならないのです。味覚という意味では、これらは民主的です。日本食もあれば、イタリアやアメリカ料理もあります。
 しかしこれについては私の奥さんに聞いて下さい。彼女は日本である秘密の鳥料理を学んできて、いま台所で料理しているところです。お客さんがくる時は、日本料理を準備してもてなしてます」

─永遠に日本に引っ越したいと思ったことはありますか?

「いいえ、私はここで働きたいのです。西田さんが今年オーガナイズしたようなクラウンフェスティバルを組織したいと夢みているところです、キエフに、世界中からクラウンのスターたちを集めたいです。来年ペテルブルクで、『リツェジェイ』のパルーニンが同じようなことをしたいと計画しています。彼は私に共同プロデューサーとしての権限を与えると言ってくれてます。これはすごいことです。しかし一番重要な問題は、もちろん金策です。私たちの国でなにか方法があるでしょうか?」

★「五月の夜」(『キエフ報知』2000年6月3日)

「日本から参加した女性クラウングループ『五人囃子』はヨーロッパでの初公演となった。ミミクリーチの創始者ウラジミール・クリューコフの日出る国での仕事は、大成功だった。五人の若い、エネルギッシュで健康な女性は、すべての観客(サーカスやヴァラエティショーに従事する専門家から、子どもや批評家にいたるまで)を興奮させた。
 日本人たちはすべての国の人々に理解できるような、番組を披露してみせた。この番組は、ミニュアチュールやパントマイム、さらには素朴なテーマから構成されていた。専門的だし、面白かったし、オリジナリティーもあった(日本のサーカスでは、女性の格好をして働くクラウンはいない)一言で言えば、フェスティバル的だった」

★「旅行への招待」(『土曜日』2000年5月20日)

「・・・青少年劇場では、グルメ向きにふたつの料理が用意させた、ひとつは台湾からの音楽劇場で、もうひとつは素晴らしい日本のクラウンショーグループ『五人囃子』(演出はミミクリーチの演出家ウラジーミル・クリューコフ)だ。ふたつのグループとも女性だけのグループだ(但し『五人囃子』の場合、演出家は除かれるが)。
 しかしはっきりしたことは、女性クラウンの方が、女性音楽グループよりも、はるかに魅惑的だったことだ。・・・・・ クリューコフの指導のもと、『五人囃子』はこれも明らかなように、全てを可能にした。パントマイムでの素晴らしい仕事だけでなく、歌い、民族楽器を演奏し、ダンスもそんなに悪くなかったし、アクロバットの技術もマスターし、ハンカチのジャグリング、影絵もやってのけた。クラウングループ『五人囃子』は、影絵からはじまり、すっーと舞踏の要素をとり入れた動きの芝居へと移行する。
 ここに出てくるのは伝統的なキャラクターではなく、例えばピエロやコロンビーナ、アルレキッーノは出てこない。男たらし、大食漢、乱暴者、音楽狂(プレイヤーを耳から離さない)、いつも煙草を加えているモク中が出てくるのだ。
 日本人たちは、客席を魅惑し、サクラの絵を描いた衝立を背景に、飛ぶチョウチョのように飛び回るよう工夫した。公演自体は、陽気さ、出演者のキャラクターが調和していることで、ストラビンスキーの『ペトルーシカ』を思い起こさせる。・・・・」

★「パントマイム劇団『五人囃子』」(「マリウポール生活」2000年5月20日)

「この不思議グループを創るというアイディアは、クリューコフが創った『ミミクリーチ』の日本公演の時に生れた。日本公演の時に、クリューコフはいつも日本のアーティストとワークショップをしていた。この中でこの劇団をつくるアイディアが生れたのだ。
 このプロジェクトを実現するために、クリューコフは日本に呼ばれ、多くの参加者を集めてオーディションを行い、1999年4月にデビュー公演をした。
 『五人囃子』は、パントマイムで活躍していた五人の女性のことをいう、彼女らはユニークではっきりとしたコメディーのキャラクターをつくりあげた。
『五人囃子』は、女性が男性を演じることが当たり前になっている、日本ではまったくオリジナルなプロジェクトであることは明らかだ。これが日本でこの劇団が人気を得た大きな要因になっている。このプロジェクトは批評家やマスコミで絶賛された。ある日本の批評家は「公演は実に興味ぶかいものだった、日本のエキゾチムと世界共通の言語がひとつになった。女性が女性を演じた、新しい演劇が誕生したのだ」と書いている。
 『五人囃子』の公演では、パントマイム、クウラニング、エキセントリックダンス、アクロバット、ジャグリング、影絵、民族楽器の演奏、民族色豊かな歌が密接につなぎ合わされている。これらずべてが、伝統とは一線を画したこの劇団の本質となっている。
 『五人囃子』について何が語られているのか? なにが彼女らのエネルギーになっているのか? なぜ日本でそれだけ人気を呼ぶようになったのか? すべてこうした問題は、東洋の女性の謎と同じだ。これらの質問に答えるのは難しい。客電が消え、舞台に春の訪れ、自然の目覚め、大地の新しい生命の誕生をうたった歌が流れる。
 ブラックライトがつけられた舞台に、古い伝統的な楽器が登場し、歌に合わせて、浮遊し、飛び、ひっくりかえる。このあとで怒り、悲しみや他の感情を描写した日本の古典的なマスクが現れる。マスクが消え、民謡は優しいリリカルな音楽に変わる。ここで五人がかわりばんこに登場する、彼女らは展覧会の絵を思い出させ、また日本の古い屏風絵に描かれた生活を思い出させてくれる(影絵の手法)。彼女たちはここで生き始め、陽気な生活のお話をはじめてくれるのだ。」

★「感動を詰めて、クラウンが行く」(『ウクライナの声』2000年5月19日)

「クラウン−これは男の職業である。しかしフェスティバル『キエフの5月−2000』で上演された日本の劇団『五人囃子』を見ると、これはちがうかもしれないと思うようになる。東京からやって来た五人の優美なクラウネスたちは、キモノを着て、町に出現、公演が始まるまでさえも観客を楽しませてくれた。彼女たちにとってもこれは一大事だったようだ、現在の日本ではキモノを着ることはそうしょっちゅうあることではないという。
 『五人囃子』は、つい最近キエフの演出家クリューコフ(有名なミミクリーチの団長)によって結成された。これは総合的な演劇である。ここにはマイム、ジャグリング、アクロバット、影絵、声楽、民謡、ダンスがあった。しかしなにが一番なのか、キエフで彼女たちに聞いてみた。すると「クラウン劇はクラウン劇」という答え。それでは「日本の伝統的なものは?」と聞いてみる。伝統芸術を研究している劇団のプロデューサー西田さんによると「東洋ではクラウンは非常に古い歴史をもっている」という。日本の壮年のひとたちは若いこの女優たちを称賛したという。メンバーのひとりユカによると、彼女のおばあちゃんは五人囃子の熱烈なファンだという。
 ウクライナについて彼女たちが知っていることはただひとつ、ここにミミクリーチがいたということ(ミミクリーチは日本で大成功をおさめている)。ウクライナと他の外国との違いはと聞いてみると、これには答えられない、何故なら今回が初めての海外で、比較できないということだ。
 5月19日『五人囃子』はトゥルスカベッツ、リボフ、クリボイ・ローク、マリウポール、ドニエツとツアーに出発する。

写真の解説から
ハナはちびの暴れん坊。ミキは「日本のカルメン」、よっちゃんは善良なのろま、ナナは一直線型でちょっとナーバス。ユカは優しいロマンチスト」

★「ウクライナのアクセントをつけた日本のユーモア」(『夕刊報知』2000年5月16日)

「日本人は極端なまでに真面目な民族である。伝統的なサーカスでは、私たちのところではおなじみの、芸と芸の間をつなぐ道化師たちは決して出演することがないという。・・・・
 『五人囃子』と共にキエフにやって来たサーカス芸術資料館の創始者で、サーカスフェスティバルのオーガナイザーの西田敬一氏は、合理的なアメリカ人やヨーロッパ人の観点からすれば、達成できないようなリスクに挑戦することを、古い日本のサーカス芸人たちはたいへん評価していたという。
 しかしながら西田氏は、現代の日本のサーカスについてはかなり否定的である。彼の見解によれば、第二次世界大戦後、子どもを働かせることを禁止した法律が施行されたあと、古い芸術は廃れてしまったということだ。日本人は、規律正しい民族で、法律は無条件で履行され、サーカスの伝統も消滅してしまった。
 西田氏は、単なるサーカス通だけでなく、サーカスの改革者でもある。彼は、日本のサーカス芸術が、西欧の技術を接木するよって再興できると信じている。『五人囃子』の実験は、日本のマスコミによると、こうした再興のための最初の試みであった。
 日本のサーカスの改革に、われわれの国から、有名なミミクリーチの創始者が参画した。ミミクリーチは、10年間世界中を駆け回り、そして日本にもやって来た。ここでクリューコフは西田氏から協力するようアジられたのだ。アイディアは、(抑圧された)慎ましい日本人たちに、今までなかった女性の道化師たちによるショーで逆襲しようというところにあった。オーディションが行われた。200人の中から5人の素晴らしい未婚の女性が選ばれた。彼女たちは3カ月間村に閉じ込められ、厳しいトレーニングを課され、これからキエフやリボフで見られる作品をつくりあげたのだ。現代のクラウン芝居と同じように、『五人囃子』の作品には、陽気なもの、悲しげなダンスの番組などがいろいろな要素が混在している。
 作品の中には、東洋的なエキゾチックな要素もあるが、なによりも刺激に満ちている。本質的に言えばこのショーはヨーロッパ的である。なによりもクラウンというものはコスモポリンタなのである。

★インフォメーョンより(『今日』2000年5月13日)

「5月14・15日午後7時から日本の女性クラウングループ『五人囃子』の公演。5人の若くチャーミングで滑稽な女の子たちが、世界中だれにでもわかる人間喜劇を演じる。なおこの作品の演出家は、ミミクリーチの創始者クリューコフである。」

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