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ウクライナ公演リポート

 五人囃子ウクライナ公演レポートを、現地より報告してゆきます。ようやく、キエフからのアクセスに成功しましたので、明日から、日々の活動の詳細を送れると思います。このページの執筆は掛川(雑誌記者)、技術サポートは辻(ACC)です。
 では、まず今日(5月8日)までの経過を記しておきます。


注:原則として、日付が強調文字で書かれている文章は、オンラインを前提として書かれ、<>で日付が記されている文章は、オフラインで書かれたものです。どうして「原則として」や「前提として」なのかは、内容を読んでいただければわかると思います。

<5月4日>東京・羽田空港集合午前6時50分。午前7時45分発JAL113便で関西空港へ向かう。。
 さらに関西空港発午前11時5分のOS558便でウィーン乗り換えウクライナ共和国の首都キエフへ出発。参加者は、西田敬一(団長・制作・国際サーカス村村長/ACC)、関口渉(国際サーカス村事務局長/群馬県東村)、星野正弘(舞台監督)、宮野和夫(照明)、辻卓也(音響・制作助手/ACC)、掛川正幸(取材・記録)、小原志浦(通訳)、橋本早苗(ナナ/五人囃子)、盛田実紀(ミキ/五人囃子)、三野祥美(ヨッちゃん/五人囃子)、水野由佳子(ユカ/五人囃子)、檀上花子(ハナ/五人囃子)、飯田志保(シホ/五人囃子控え)の計13名。
 ウィーンへはほぼ定刻通り、午後4時すぎに到着。約3時間のトランジットで19時50分発OS8651便に乗り継ぎキエフへ。キエフ到着はこちらの時間で午後11時前。羽田を発ってから、じつに20時間を超す旅でした。さらに、別送品の税関審査などに手間取り、全員がロビーに出られたときには、既に午前零時を回っていました。そして、五人囃子の演出家でキエフに住んでいるウラジミール・クリュコフさん夫妻の出迎えを受け、彼が用意したバスで翌5日の午前1時ごろ、キエフ市内のドニエプル河畔の船上ホテルに到着。何か手違いがあったらしく、翌日には部屋を変えることになりましたが、とにかく、ようやく、手足を伸ばして横になれました。

ナナ <5月5日>午後4時半から、今回のウクライナ公演の現地のプロモーターであり、また五人囃子が参加するフェスティバル「キエフ・五月・2000」の実行委員長ヴィターリさんとの顔合わせ。ウクライナ滞在中の予定表が渡されましたが、すぐにでも稽古や準備を始めたい一行の気持ちとは逆に、公演に関する具体的な段取りは、ほとんどわかりませんでした。

<5月6日>西田氏の強い要望により、キエフ公演が行われる「青年少年劇場」の下見が実現。その後、彼と星野氏は空港へ別送品の衣装や小道具を引き取りに行き、五人囃子のメンバーは、市内観光をしました。夜はオペラ座でエフゲニー・オディニ出演のオペラを鑑賞。

ミキ <5月7日>午前8時集合。クリュコフさんの友人たちと約150キロほど離れたコルソンという渓谷へ、バスでピクニックに出発。バスの中には様々な食べ物や酒が用意されていました。また、到着した場所にも魚のスープや肉の串焼き(シャシリク)が準備されていて、ギターや歌を交え、川原の大宴会。帰途についたころには、とっぷりと暮れ落ち、午後11時すぎにキエフに着きました。確かに、楽しい一日ではありました。しかし、大道具や照明の準備がどうなるのか、は、一向にあきらかにされませんでした。

5月8日 午前11時50分 キエフ
(ウクライナ時間*ウクライナは日本の標準時より6時間遅れです)
 まず、レポートの方法を説明します。我々が泊まっているホテルには、部屋に電話がありません。このアクセスは、ヴィターリさんの事務所から立ち上げています。つまり、まず、更新すべき文章を事前に作っておき、毎日彼のオフィスを訪ね、その場を借りてE-mailを含む日本との連絡のすべてをおこなうことにしたのです。今のところ、東京とのアクセスに関してはこれがもっとも確実な方法なので、リアルタイムでレポートを送りたいのですが、最低10時間〜12時間のタイムラグがどうしても生じてしまいます。ご了承ください。  また、5月18日以降、五人囃子はウクライナ各地で公演する予定ですが、首都のキエフでさえ通信状態がこのような有様なので(*日本や欧米のビジネスマンが泊まる一泊1万円以上のホテルにはもちろん電話があります。しかし、我々を招聘してくれた人々は、平均月収が2万円たらずの社会で舞台活動をしていることを忘れないでください)、地方公演の際には、このレポートをアップデイトできるかどうかまったくわかりません。重ね重ね、ご了承を。

ユカ 5月9日 午前8時 キエフ
 今朝もキエフは快晴です。我々がキエフに到着して以来、毎日晴天が続いています。五人囃子とわれわれスタッフ全員が泊まっているのは、旧ソ連時代にドニエプル河と黒海を結んでいたクルーズ船を利用したホテル、「ニコライ・ドブロ・ジューコフ」号。今日、ようやく稽古に入る囃子の稽古場は、そこから、徒歩15分ほどのところにある「ポドル」劇場という小劇場です。
 午後3時には、ACCの西田氏と東村の関口氏が地元の新聞社の取材を受けます。その後、午後6時からは、キエフ側からの要請で、市内の戦没者慰霊碑に五人囃子メンバー全員が献花をする予定です。じつは、いまウクライナは第二次世界大戦の勝利を記念する連休中なのです。そして、一年でもっともよい季節、とのこと。ドニエプル川(こちらの人はニープルと発音します)を渡ってくる風は、山や谷の多い日本の咳き込むような風とは異なり、息が長く、まるで大地が深呼吸をしているようです。
 昨夜、ポドル劇場で行われたエキシビジョンでは、ここキエフのサーカス学校の生徒や他のクラウンに混じり、ナナの「副作用」と五人囃子によって東村の「八木節」が演じられ、客席からかなりの拍手と笑いをもらいました。14,15日の本番にも希望がもてそうです。

 同日 午後2時 キエフ ヴィターリ事務所
 本日は、どうやらアクセスポイントに障害があるらしく、このページの更新ができませんでした。回線がパルスのせいなのか、とにかくラインが不安定で、状態がよいときでも5回試して1回接続する程度です。さて、明日はどうなることやら。

5月10日 午前9時50分 キエフ
 今日も、キエフは快晴です。
 昨日の戦勝記念日、街には人が行き交い、地味ですが、その人の数だけお祭りムードが漂っていました。五人囃子のメンバーも浴衣姿で戦没者慰霊碑にでかけ、神妙な表情でカーネンションを捧げました。ドニエプル河を見渡す丘の上にそそり立つそのオベリスクの周辺は献花をする人々であふれ、碑の下には赤や黄色の花が山のように積まれています。でも、それにもまして、五人囃子の浴衣は人々の視線を浴びました。また、夜は大砲から打ち出されたような大音響の花火が10数発夜空を彩り、人々は大盛り上がり。五人囃子のメンバーも、演出家のクリュコフさんに連れられて、ディスコで大盛り上がり。久しぶりに夜更かしをした一日でした。
 五人囃子の公演が含まれる今回のフェスティバルには、イスラエルや台湾など他の国からのアーティストも次々に到着。もう、すでに一部のプログラムは始まっています。

ヨッちゃん 5月12日 午後2時10分 キエフ
 この2日ほど、プロバイダー(AOL)の障害でアクセスできませんでしたが、本日復旧。今後のことも考えて、こちらウクライナのプロバイダーにも加入しました。なんとか、定期的にアップデイトしてゆきたいと思っています。
 では、まず、この2日間の動きを簡単に伝えます。

<5月10日>午前中は、稽古。西田氏と関口氏は、今回のフェスティバルの最高責任者、キエフ市文化局長のアレクサンダー・ヴィストリュウキン氏を表敬訪問。午後4時からは、キエフの新聞社や雑誌社などの共同記者会見が行われました。また、午後7時から「東洋の夕べ」なる催しが開かれ、台湾からのグループなどが参加。五人囃子は「八木節」を披露しました。さらに、ヴィターリさんの劇団よる芝居の一場面なども上演。ところが、その後、こちらの人々が次々にステージに上がり、中国語でスピーチを展開し始め、西田氏は審査委員の一人に任命されました。じつは、この「東洋の夕べ」、ウクライナ人の中国語コンテストだったのです。

ハナ <5月11日>西田氏とクリュコフさんが、午前11時45分からキエフのTV局「新チャンネル」のトーク番組に出演。番組は、キエフ版「徹子の部屋」ともいうべき「タチアナの昼」というもの。五人囃子も同行して、「八木節」を披露。ハナが風邪のため声が出せず、ヨッちゃんが代って歌いました。午後5時30分からは、市内の「若者劇場」の創立20周年記念の会場に浴衣姿で駆けつけ、舞台に並び、挨拶。その後、クリュコフさんが住宅地の中にある中国レストランで夕食会を開いてくれて、全員久し振りに舌鼓を打ちました。
 そして、今日12日、五人囃子は午前中稽古。クリュコフさんの演出に変更があったため、メンバーは夕方も自主練習。一方スタッフは、午後7時から「青年少年劇場」で台湾のグループによる伝統的な音楽を観賞する予定です。

5月13日 午前12時10分 キエフ
 いよいよ第一回目の公演を明日に控えて、ようやく今日から「青年少年劇場」で稽古ができるようになりました。しかし、まだ照明などは決まっていません。受け入れ側の時間感覚の違いや段取りの悪さに、皆少々辟易としています。それでも、ようやく動き始めました。
 キエフは、昨日から、天気は好いのですが、急に冷たい北風が吹くようになり、みんな震えています。

5月14日 午前11時50分 キエフ
 いよいよ今日からウクライナ公演の幕が開きます。しかし、東村の関口さんは、初日を前に今朝の便で帰国の途につきました。ウクライナ側が公演期日を当初の予定と変えたため、スケジュールが合わなくなってしまったのです。いっぽう、五人囃子は、昨夜、「UC-1」というTV局の深夜番組「グッドナイト・ウクライナ」に生出演。ホテルに戻ったときには、午前2時半を回っていました。さらに今日も、クリュコフさんとミキとナナが午後1時から別の局の番組で収録。これで五人囃子は、キエフのTV局にすべて出たことになります。本番を前に、あわただしさが募ってきました。
 今日午後7時から五人囃子の公演が行われる「青年少年劇場」は、東京・両国の「シアターX」の3倍ほどの大きさ。奥ゆきと高さがあるプロセニアムアーチが特徴です。普段は青少年向けの番組を組んでいますが、今回のフェスティバルの最中には、メイン会場のひとつとして使われています。かつての、六本木の俳優座の面影もある立派な劇場で、五人囃子がこれまで公演した中ではもっとも大きな劇場のひとつです。
 今日のキエフは、珍しく曇り空。でも、寒さは昨日ほどではなく、日曜日でもあるので、お客さんもきっと足を運んでくれるでしょう。

5月15日 午後零時25分 キエフ
 昨日幕を開けた五人囃子のウクライナでの初演は、ほぼ満席。客のノリも良く、まず、大成功といえます。カーテンコールでは客席から多くの花束が贈られ、メンバーも戸惑うほどでした。また、こちらに住んででいる日本人も何人か来てくれました。開幕直前まで、照明の打ち合わせなど戦場のようでしたが、とにかく幕が開いたので一同ひとまず安心しています。キエフに到着してから10日目。長い「待ち」の時間でした。
 いま、キエフでは「カシュタン」と呼ばれる栗の一種の花が街中で咲き乱れ、「トゥープリ」という柳の綿毛が風に舞っています。五人囃子の幕が開き、ようやく我々にも季節を楽しむ余裕が生まれたようです。今日の開演は午後7時。稽古は3時開始。それまでは、久々の休憩です。

5月16日 午後1時15分 キエフ
 昨日で、とりあえずキエフでの公演を終えました。お客さんの入りは一昨日より少しすくなかったものの、ウケは最高で、五人囃子のメンバーもノッていました。クリュコフさんの評では、今まで最高の出来だった、とか。
公演後、荷物の片付けなどで遅くなり、夕食は取り置きの料理を各自の部屋で。その後、クリュコフさんがメンバーやスタッフを宿泊中の船上ホテルのバーに集め、大宴会。またまた、キエフの夜は宴会でふけていったのでした。
 今日は、一日中、完全にオフ。メンバーは、二人一組で街に出かけています。夜はみんなでロックコンサートへ行く予定。この数日間の寒さもすっかりなくなり、今日は汗ばむほどの暖かさです。明後日からの地方公演に向けてつかの間の休日を楽しむには、絶好の天気になりました。東村の関口氏が帰国してしまったため、少し寂しいけれど、ドニエプル河は今日も音も無くとうとうと流れています。

5月17日 午前11時55分 キエフ
 今日もキエフは快晴です。昨夜のコンサートは、主役が出演する前に、時間の都合で帰らざるをえませんでした。でも、その後にメンバー全員でポドル劇場で観たミュージカル仕立ての芝居は実にレベルが高く面白かったです。題目は、ウクライナ東部・ハリコフの「アラベスク」という小さな劇団による「エナイーダ」(ギリシア古典のイリアッド)。ウクライナ伝わるギリシア神話のパロディ民話をアレンジしたもので、スタッフ一同、呆然、敬服、脱帽しました。
 さて、いよいよ、明日から地方公演です。バスを一台借り切り、まず、ウクライナ西部の都市リヴォフへ行く予定ですが、ウクライナ側の準備が進んでいる気配はまったくありません。これまでの経緯からすれば、段取りはまだ何も決まっていないと思われます。場合によっては、バスの車中泊や公演の中止なども覚悟しています。でも、行く先々で、宴会やパーティだけは開かれるでしょう。なにしろ、公演はまだ2回しかしていないのに、クリュコフ夫妻やその知り合いなどによる酒宴だけはすでに10回近く開かれているのですから・・・。また、インターネットへのアクセスがどこでできるのか、まったく想像もできません。したがって、しばらくこのページの更新ができなくなる可能性があります。電話の確保には極力努力しますが、あしからずご理解ください。

5月19日 午後6時50分 トスカルフツェ
 五人囃子は、いまウクライナ西部、ポーランドやスロバキアとの国境に近いトスカルフツェという所にいます。ここは温泉が湧く古くからの保養地で、われわれが泊まっているのは、丘の上の、大統領も泊まるという大きな保養施設。保養施設なので、館内を車椅子に乗った人や青い顔した子供などが行き交いますが、キエフで泊まっていた狭くうるさい船上ホテルの部屋と比べたら、ここはまさに宮殿です。部屋は天井が高くて広く冷蔵庫もつき、インターネットへのアクセスを立ち上げるには少し苦労しましたが、ダイヤル式の電話もあります。今夜、午後8時からこの施設内の劇場で公演が行われます。
 しかし、それが決まるまでには、信じられないような紆余曲折がありました。なんと今朝になっても、どの劇場で公演が行われるのか、決まっていなかったのです。そのうえ、こちらのプロモーターは、宣伝のために浴衣姿で町を歩け、とか、子供たちのためにショート・プログラムを組め、といった要請を、事前の相談もまったくなく、今朝になって突然持ち出してきたました。これには西田氏のみならず、メンバーやスタッフも怒り、朝食のレストランから全員席を立って引き上げる一場面があったのです。生活習慣や社会的な常識の違いもあるでしょうが、段取りの悪さ(と、いうより、ウクライナには段取りはほとんど無いらしい)や要領を得ない予定 (と、いういより、予定には時間という概念がほとんど含まれていないようだ)には、いつもイライラさせられています。  五人囃子のメンバーもスタッフも、この2〜3日ゆっくり眠っていません。
 というのは・・・。
 まず、5月17日、つまりキエフを出発する前日、午後9時にヴィターリさんの自宅へ五人囃子のメンバー、スッタフともども招かれ、パーティが開かれました。でも、そのパーティが始まったのは、午後10時すぎ。そのうえ、スタッフはその席を中座して、装置や道具を大型バスに積み込まなければならなかったのです。五人囃子のメンバーがホテルに戻ったのは午前2時近く。スタッフは2時すぎ。そして、出発は午前4時(結局バスの到着が1時間ほど遅れましたが)。
 ウクライナは道路事情が悪く、リヴォフへ向かうバスの車中は、揺れ跳ねる寝心地の悪い仮眠室さながらでした。出発から約11時間後の18日午後4時すぎ、リヴォフ市に到着。トスカルフツィとリヴォフの公演をプロモートするアナトリーさんによって歓迎のお茶の席が用意されていました。
 ところが、事前の話では、その後、五人囃子は浴衣姿で市長への公式訪問、市長とともにシェフチェンコ像への献花、日本語を学ぶ子供たちとの歓談、公式晩餐会とかなりフォーマルな行事が続くはずでしたが、会見したのはどうやら市の政治家らしいけれど市長ではなく、待ち合わせの場所もオペラ座の前の広場。「公式晩餐会」は地下の小さな居酒屋で出席者に市の関係者の姿はなく、日本語を学ぶ児童たちとの歓談もどこかへ消えてしまったのです。さらに、公演の場所と回数(3回)をメンバーやスタッフが知ったのは、街角に張られた宣伝ポスターを見てからでした。そして、最初郊外だと聞かされていたこのトスカルフツェへ着いたのも、夕食後バスに乗ってから出発を1時間も待たされたあげく、2時間もかかり、午前零時近くだったのです。
 でも、今のところ、みんな大きな病気や事故もせず、元気です。

5月22日 午前2時55分 キエフ
 なんと、本来ならば、今リヴォフにいるはずなのにキエフに戻ってしまいました。ということは、今日ヴィターリさん事務所からアクセスできるので、この2〜3日のことを簡単に記しておきます。

<5月19日>この日、トスカルフツェの保養施設「カルパチア」で行われた公演の出来は、イマイチでした。そのうえ、プロモーターのアナトリー氏がステージの最終場面を閉幕と勘違いし、まだ演技が続いているのに花束を持って舞台に出てしまい、おまけに下手の壁にあった客電(客席の明かり)のスイッチを入れて客席を明るくしてしまう、という信じられない事態も起きました。
 その夜、ウクライナに着いて以来初めて、雨が降りました。

<5月20日>午前10時にトスカルフツェの保養施設を出発。途中、その温泉の源泉に寄るなどして、リヴォフに到着したのは、午後零時半ごろ。用意されていた宿泊場所は、「ライオン・キャッスル」というかつての貴族の館をリニューアルした小さいけれど瀟洒なホテル。なかには、バスタブ付の部屋もあって、約2週間滞在したキエフの船上ホテルと比べれば信じられない豪華さに一同大いに感激しました。おそらく、そのホテルが今回のウクライナ公演での最高のホテルになることを、誰も疑いませんでした。しかし、電話は外線が手動接続などで、インターネットへつなげませんでした。それに、ウクライナでは、信じられないことが良いことでも悪いことでも、つねに起きます。なんと、翌21日の公演を中止する、と受け入れ側が言い出したのです。そればかりか、その後約1週間にわたって行われるはずのほかの市や町での公演も、開催の目途がまったく立っていない、と言うのです。
 午後7時15分から市の中心近い「リヴォフ文化会館」で行われた公演は、幕が閉じると客席からスタンディング・オベイションが起きました。また、その劇場に付属するバレー学校の少女たち10数人が、授業のあと五人囃子のステージを見て感激し、終演後楽屋に押しかける一幕もありました。その後、翌21日の公演が中止になり、それ以降の計画もすべて振り出しに戻ったにもかかわらず、受け入れ側主催による宴会だけは、予想にたがわず開催。さすがにメンバーやスタッフは早々に引き上げましたが、クリュコフさんやアナトリーさんに付き合わされた西田氏がホテルに帰ってきたのは、翌日(21日)の午前7時近くでした。

<5月21日>その日の公演が中止になり、その後の地方公演も現段階では不可能になってしまったため、いったんキエフへ戻ることになりました。リヴォフを出発したのは午前10時半ごろ。しかし、その時点では夜泊まるホテルが決まっていませんでした。結局、以前滞在していたドニエプル河畔の船上ホテルに泊まることが決まったのは、午後11時過ぎにキエフに到着したときでした。ところが、まだフェスティバルが続いているため、部屋がとれず、一行は窓がない船底の3人部屋に押し込まれることになったのです。  船上ホテルのレストランが閉まってから到着した我々を気遣い、クリュコフさんの奥さんのナージャさんが大きな肉の塊のローストやジャガイモなどを持ってきてくれました。そして、それらの御馳走を船上ホテルの使用されていないレセプションルームの片隅で食べることになりました。もっとも、そのテーブルにはビールやウオッカの瓶も林のように用意されたのですが・・・・。
 そして、先ほど五人囃子のメンバーのひとり、ハナが喘息の発作を起こして救急車が呼ばれました。看護婦の経験があるヨッちゃんがいたので大事には至らずに済みましたが、予想しうる最悪の事態とは、必ず起きるもののようです。  今日は、リヴォフを発つときも、それからの道中も、キエフに到着したときも、ずっと吐く息が白くなる冷たい雨が降り続いていました。ウクライナの季節は初夏から一気に夏を通り越して晩秋になってしまったようです。

5月23日 午後零時35分 キエフ
 昨日までの雨もやみ、キエフは季節を取り戻し始めました。でも、五人囃子の今後の公演については、まだ見通しがついていません。そんななかで、昨日午後、メンバーはキエフのサーカス学校の授業に参加し、体を動かすエクササイズを行いました。午後7時からは、このフェスティバルに参加しているイタリアのバレー団の公演を鑑賞。その後は、またクリュコフさんの友人のパーティー。公演の回数よりも、クリュコフさん絡みの宴会やパーティーの回数だけは確実にどんどん増えてゆくのがウクラナ式の興業なのかもしれません。
 21日の深夜、キエフに戻ってきたときには、船底の部屋に泊まるのはその夜だけで、翌日には別の部屋かほかのホテルに移るということだったのに、そんな話はいつの間にかどこかに消えてしまい、公演についてもほとんど話題に上らなくなってしまいました。そうゆうわけで、このままとうぶん、公演もないまま船底暮らしが続きそうです。
 五人囃子は、今日も午後3時からサーカス学校の授業に参加します。わざわざエクササイズをするために、ウクライナに来たのではないのですが・・・。最近では、前日に次の日の予定がわからないのはあたりまえ、朝にその日の予定がわかれば良いほう、実際にそのときにならないと何をするのかわからない、というのが実情です。しかし、公演の見通しがたたなくても、ドストエフスキーが描くような船底暮らしが続き、連日の宴会やパーティに引き回されようが、五人囃子は毎日楽しくやっています。

5月24日 午前10時20分 キエフ
 昨夜、ようやく今後の予定がクリュコフさんからあきらにされました。
 それによれば、今回のフェスティバルの閉会式が行われる27日までは、このまま待機。その27日、閉会式に出席後、そのままクリボイログという南部の町へ出発。その後、黒海の北のアゾフ海に面したマリオプリ、その北のドニエック、さらにキエフとリヴォフの中ほどにあるオストーク、ネティーシで公演を行い、6月5日にキエフに帰ってくる予定。移動の距離が長く、かなりハードなスケジュールです。また、そのツアーに使うバスはリヴォフから戻ってきたあと調子が悪く、現在、修理工場に入っているとのこと。まあ、今までの経過からすれば、その計画がそのまますんなり実現するかどうかは疑問ですが、とにかく、予定が出てきたことで我々の船底暮らしににも多少の救いが生まれました。
 今日のキエフは、晴れ。ドニエプル河の川面を、再び、あの息の長い、大地の深呼吸のような風が渡ってゆきます。外気が入らず光もまったく差さない船底の部屋から抜け出して、最上階の屋上のような甲板にいると、ふと、ウクライナにやってきてすでに20日たったことを思い出しました。
 近くでは、五人囃子のメンバーのひとりミキが、手摺に洗濯物を干し、体をゆすってストレッチをしています。
 青い空が、まぶしいです。
  ウクライナの新聞のいくつかに、キエフ公演の劇評が掲載されました。そのひとつ「我々の新聞」には「思いもよらないような方法で、純粋な、ヨーロッパ的なギャグダンスを、日本的な音楽や影絵などと結びつけることに成功した」と、書かれています。どの新聞も極めて好意的なので、我々のほうが驚いている状態です。

5月25日 午後2時35分 キエフ
 今日のキエフは快晴。高校の卒業式の日とかで、街にはドレスなどで着飾り、さまざまな色の襷をかけた女子高生や、ジャケットを着込んだ男子生徒があふれています。
 ハナが喘息からほぼ回復し、今日の午前中サーカス学校で行われたエクササイズに参加しました。トスカルフツェの公演で腰を痛めたナナも、調子を取り戻してきたようです。28日から始まる2回目の地方公演へ向けての準備は、心身ともに整いつつあります。  この待機の日々を、五人囃子は有効(?)に使っています。3日前からはサーカス学校のクラスで在校生と一緒にエクササイズを受けていますし、昨日からはキエフの公演を行った「青年劇場」の練習場で、稽古ができるようになりました。そして、毎晩、五人囃子も参加したフェスティバルが開催されている市内各地の劇場へ出かけています。これまでに、イタリアのバレー劇団による「トスカーナ」、地元キエフのマリオネット劇団の「ソーリチカ(太陽はどこだ)」、イタリアの劇団によるチエホフ「かもめ」などを観賞し、日本とは異なる文化を吸収しています。
 最初は骨休みになった待機が、公演の中止などでいつのまにか泥沼のような待ち時間となり、いまや、暇なりに忙しいといった状態に変わってきました。とにかくあと3日耐えさすれば、息が詰まりそうな船底生活から解放されるはず、です。

5月26日 午前10時35分 キエフ
 昨日はAOLのサーバーが再びダウン、こちらで加入したプリペイド式のプロバイダーcom.uaも回線がビジーでアクセスできませんでした。
 今日もキエフは晴れです。空や陽射しが毎日一歩づつ夏に向かっているのを感じます。船底暮らしもすっかり板について、それなりのリズムが生まれてきました。朝食は、毎朝、9時から10時の間。昼食はたいてい午後2時。夕食はなんと、午後6時からです。そして、高緯度地方に独特の長い夕暮れが始まります。いままでは、公演がないとき、その長い夕暮れが宴会やパティーに費やされていたのですが、さすがのクリュコフさんもネタ切れになったらしく、この2,3日宴会はありません。昨日は、そんな夕暮れを、この船上ホテルの近くの人形劇専門の劇場で、風刺劇を見てすごしました。船底暮らしは相変わらずだけれど、公演の予定も決まり、それなりにのんびりした日を過ごしています。

 同日 午後7時10分
 とりあえず、2回目の地方公演の予定、明日(27日)夜出発は、中止になりました。

5月27日 午後3時40分 キエフ
 キエフは汗ばむほどの暑さです。今日と明日は市政記念日とかで、町中に屋台や露店が並び、人波が渦巻いています。そんな熱気の中で五人囃子が参加したフェスティバル「キエフ・5月・2000」は閉会を迎えます。夜8時から、フェスティバルの閉会式がペテルスカヤ大聖堂のギャラリーで行われる予定です。
 それまでの時間を縫って、五人囃子は午前11時からサーカス学校のいつものクラスでエクササイズ。でも、今日はそのクラスの先生のナタリーさんの誕生日でもあるので、エクササイズ終了後、生徒たちが先生に贈るパフォーマンスとともに、五人囃子もナナとミキとヨッちゃんがソロで自分の持ちネタを演じました。その後、大きなケーキを切ってクラスの生徒や関係者と一緒にティーパーティー。同じクラウン同士、言葉が通じなくても、すぐに打ち解けて交流を深めました。
 すでに6日も続く船底暮らしは、まだ終わりそうもありません。
 また、事情により公演の予定や変更を伝えられない場合が出てきました。ご了承ください。

5月29日 午前11時50分 キエフ
 キエフ市内の第3孤児学校の講堂で、午後1時からの五人囃子の公演のカット版の準備が進んでいます。
 昨日と今日のキエフは、うだるような暑さです。それでも空気が乾燥しているので、木陰に入るとハンモックでも吊るして昼寝をしたくなるほど、心地よい風を感じられます。
 昨日は、このページの更新ができなかったため、その分も伝えます。
 一昨夜(27日)、ギャラリー「ラムタン」で行われたフェスティバルのフィナーレでは、五人囃子も世界各国から集まった18グループとともにショートプログラム演じました。いずれも、民族色豊かな、そして多種多様なステージで、このフェスティバルの最後を飾るふさわしい雰囲気でした。とくに、最後の最後に演奏されたシカゴのジャズには、みんな大感激。時がたつのを忘れて、踊り痴れました。

<5月28日> 朝から、市政記念日を祝う人たちで、普段はあまりひと気のない船上ホテルの周辺にも、人があふれ返っていました。
 五人囃子は、午後1時ごろから、背後の「ウラジーミルの丘」の広場で行われていた、地元の少年少女を集めた私設のサーカス学校の公演に飛び入り。公園を散策する人々の足を止めました。その後は、例によって、キエフ大学近くの公園でクリュコフさんの知り合いのパーティ。さらに、ポドル劇場で、数日前に亡くなったヴィターリさんのお父さんを偲ぶパーティ。でも、その集まりはけっして湿っぽいものではなく、終始和やかでした。 夜には、花火も上がって、この日はもしかすると、キエフが一年で一番華やぐ日のようでした。
 五人囃子は、明日(30日)午後4時、キエフから南東へ約800キロほど離れ、アゾフ海に面した都市マリオプリへバスで出発する予定です。所要時間は18時間〜20時間とみられ、車中泊になります。

5月30日 午後零時25分 キエフ
 今日の午後4時、マリオポリに出発します。一晩だけのはずだったのに、結局1週間以上続いた船底生活とも、ようやくおさらばです。五人囃子のメンバーの何人かは、長旅に備えて市場へ買出しに出かけました。けっして出航しない船の船底に閉じ込められているよりも、夜を徹して走るバスに揺られているほうが、いくらかマシです。いずれ、どこかに到着するのですから・・・。
 我々が行くマリオプリは、昨日の気温が摂氏40度だったそうです。

6月2日 午後1時10分 マリオプリ
 五人囃子とそのスタッフ一行は、現在アゾフ海北岸の都市マリオプリで、遭難しかけています。と、いうのは、昨夜この町で行った公演以降の公演がすべてキャンセルされたからで、我々は、行き場をなくしてしまったのです。さきほど、とりあえず、今夜は昨日まで泊まっていたホテルに泊まれることになりましたが、明日以降どうなるのかは、まったくわかりません。
 このホテルは、旧ソ連時代に建設された国内保養者向けのホテルそのもので、各階にはいまも管理人のおばさんがいます。シャワーやトイレが付いていない部屋もあります。我々以外に泊まっているのは、すでに夏休みに入ったウクライナの大学生のグループや家族連れです。 でも、ホテルから緑地帯と線路を越えると、そこはアゾフ海の砂浜。茶色に濁った遠浅の海沿いに続く細い砂浜に、水着姿の人々が横たわっています。このホテルにチェックインした日の夕方、五人囃子のミキやヨッちゃんは、早速、服を着たままそのアゾフ海で泳ぎました。
 このホテルの部屋にも電話がなく、玄関の公衆電話も使えないので、市内にあるというインターネット・カフェから、アクセしてみようと思っています。
 また、キエフ出発から今日の昼に至る経過は、あとで詳述します。

<5月31日>キエフを出発したバスには、クリュコフさんの奥さんのナージャさんが準備した心尽くしの御馳走や、冷えたビールやミネラルウォータ、サクランボなどが山ほど積み込まれていました。ずっと、冷蔵庫すらない船底生活をしてきた一行には、この「冷えた」というのが何よりもありがたいポイント。ようやく公演を打てることもあって、バスのなかは、五人囃子のメンバーも参加して久し振りに明るく賑やかな夕食兼宴会が、車窓のすっかり暮れ落ちるまで延々と続きました。
 バスが地平線が幾重にも重なって現れるウクライナの大平原を走り続け、マリオプリに着いたのは、午後2時ごろ。マリオプリのプロモーター、アーニャさんという、23歳の女性で1児の母に迎えられました。そのまま、なにやらブラックライトがやたらに目立つ「コーラル」という薄暗いクラブで食事。ホテルにチェックイン後、再びそのクラブに戻り、浴衣姿で記者会見。マリオプリのテレビ2局と新聞3社が出席しました。そして、ホテルにまた戻ったあと、再度そのクラブでとる夕食まで自由時間。
 ところが、その夕食に出発する時刻になってもナナがバスに現れませんでした。じつは、トスカルフツィの公演以来本調子といえなかった彼女は体調が急速に悪化し、ついに寝込んでしまったのです。そう言えば、記者会見に出発するときも、普段は時間厳守のナナには珍しく、彼女はみんなを20分以上待たせました。
 ナナを残して夕食に向かうバスの中も、薄暗いクラブでの夕食も、みんな言葉も少なく、うつむき加減でした。ようやくこぎつけた公演をどうするのか・・・。ただ、西田氏だけが善後策を練って強張った声を次々に発します。そして、最悪の場合、控えのシホに代役が勤まらないため、ナナを欠いたまま公演し、彼女は通訳の小原さんとともに列車の寝台車でキエフに戻り、クリュコフさんの家で療養することになりました。
 急遽ホテルに戻った小原さんと、看護婦だったヨッちゃんに付き添われて、ナナはアーニャさんの母親に紹介された病院に向かいました。その間、残された一行は薄暗いクラブの片隅で、ただひたすら診断の結果を待つだけ・・・。約2時間後、小原さんから西田氏に電話が入り、医者の診断では、本格的な治療にはほぼ1週間の入院を必要とするが、当面の対症処置を施したため、なんとか入院はせずに済む、とのこと。ナナはホテルに戻りました。
 クリュコフさんは、我々を残したままどこかに消えていて、メンバーやスッタフはその知らせを聞いたあと、今度は彼を待つことになりました。結局、クリュコフ氏が現れるのを待った西田氏がホテルに戻ったのは、午前零時過ぎ。それでも、クリュコフさんからスタッフに集合がかかり、ナナの病状への心配をよそに、真夜中の酒宴がホテルの前庭のテラスで開かれたのでした。

<6月1日>ナナは朝食に姿を現しました。まだ、充分に回復してはいないようでしたが、クリュコフさんが「舞台に立つのか?」と聞くと、「もちろん」との答え。
 公演が行われたのは、街の中心にある「ロシア・ドラマ劇場」。ギリシアの神殿を模した大きな建物で、2階、3階の桟敷席などがあり、オペラもできるヨーロッパの伝統にのっとた本格的な劇場です。五人囃子は、マリオプリのいわばオペラ座で公演することになったのです。
 開演前には、アリーナの8割が埋まりました。
 幕が開くと、五人囃子は3階の桟敷席からは、豆粒ほどの大きさにしか見えません。五人囃子にとっても、これまでで、一番広く、高く、大きなステージで、おそらく、メンバーの誰もが、これ以上本格的で大きな劇場に立つことは、今後まずないでしょう。
 そういった意味で、ナナの容態で一時は危ぶまれた公演は、記念すべきものになりました。
 カーテンコールが終わった後、ステージの袖にへたり込んだ彼女の一言は、「今日は、ちょっと頑張ったかナ」。
 バスでは、最後部の座席から荷物どかし、移動に備えて、手足を伸ばして寝られるナナ専用の「個室」が設けられました。
 とにかく、マリオプリの大舞台の幕は開き、無事、幕を下ろせたのでした。

6月4日 午前1時 ハリコフ
 先ほど、ハリコフに到着しました。今日、ハリコフで公演することが、昨日(3日)の正午過ぎ、急遽決まったのです。
 マリオプリを発ったのが昨日の午後1時半ごろ。約11時間のバスの旅でした。チェックインしたこのホテルは、一行が泊まるどの部屋にもトイレもシャワーも付いておらず、共同シャワーの水もトイレの水も出ず、手足を伸ばせるぶんだけバスの車中泊よりも楽、といったホテルです。それに夕食も、どこかのキオスクで買ってきた菓子パン。でも、遭難しかけていた身には贅沢は言えません。我々の世話をしてくれる、キエフでのフェスティバルに参加したここの劇団「アラベスク」の人たちも、一生懸命やってくれているのですから・・・。
 そして、このホテルが、ウクライナで泊まる最後のホテルになるはずです。今日の公演後、バスの車中泊でキエフに戻り、明日は遊覧船上で歓送パーティーのあと、元ミミクリーチのメンバー、ハイラーフさんの家で大宴会。そのまま夜を明かして、午後キエフを発つ飛行機に乗る、という予定なのです。そして、これまでの例からすれば、公演の予定がキャンセルされて消えることがあっても、クリュコフさんが立てたパーティーや宴会の予定だけは確実に実現します。つまり、我々は明日から2夜ベットに身体を横たえることなく、帰国の途につくわけです。
 一昨日(6月2日)、マリオプリではキエフのアクセスポイントへつなげませんでした。インターネット・カフェはLANだったので接続できず、電話局のカード式公衆電話からも、回線状態が非常に悪いらしく、キエフのアクセスポイントにつながっても、その後の通信が途切れてしまうのです。キエフに戻れば、ヴィターリさんの事務所からアクセス可能なので、それまでにこのレポートを書き込んでおこうと思っています。
 行き場を無くしたマリオプリでは、ナナも元気を取り戻し、一昨日は、午後6時から、偶然この町で開幕した「デボン・サーカス」を全員で観に行きました。馬や犬、南米の高地に住むリャマなど動物を多用したサーカスでしたが、とくにクラウンのアンドレの芸は、まさに天才。遭難中に秘宝を発見したようなもので、みんな約3時間びっちり楽みました。
 どんなときにも、サーカスを観れば素直に楽しめる。それが、この一行の最大の特徴なのかもしれません。

6月5日 午前7時50分 キエフ
 ハリコフから夜を徹して走り続け、現在、キエフ空港の航空荷物保税区域のゲート前にいます。つまり、どういうことかというと、日本に送り返す小道具や衣装などの別送荷物の送り出しを待っているのです。
 予定では、西田氏と星野氏を除く一行はキエフ市内でバスを降りて、どこか(どうも空きアパートの一室らしい)で休息するはずでしたが、バスがキエフ市内に行って再び空港へ戻ってくると通関時間に間に合わなくなったため、通関書類を持ったクリュコフさんの奥さんのナージャさんが直接ここへ駆けつけるのを、全員で待つことになったのです。ナージャさんがここに来るまで最低1時間、それから通関手続きには数時間、少なくとも昼すぎまで、ここにいなければならないのは確かなようです。しかも、その通関中はバスが保税区域に入ってしまうため、我々はバスから降ろされて待つことになるでしょう。
 昨日午後6時から、ハリコフの演劇大学のスタジオで、五人囃子ウクライナ公演最後のステージがありました。
 これは先週の木曜(6月1日)、突然ハリコフのプロモーター、イゴーリさんに話しが持ち込まれ、土曜日(3日)に決定し、日曜日(4日)に実現したもの。それが、偶然にも、本格的な舞台芸術を学ぶ場での公演とあって、お客さんの反応が気になりました。
 でも、いざ6時が近づくと、学校の6階にあるスタジオ(といっても、50ほどの客席がある小劇場)には続々と人が詰めかけ、大勢の立ち見が出る超満員。幕が開くと、客席からは一場の終わりで大きな拍手が起き、それからは笑いと拍手の連続。そして、なんとカーテン・コールはスタンディング・オベイションで迎えられました。
 学生が多い都市で、しかも演劇大学のステージで、目の肥えた舞台関係者や客たちからスタンディング・オベイションを受けるなんて、まさにウクライナ公演の最後を飾るにふさわしい幕切れでした。五人囃子も、ようやく本物に一歩近づいたのかもしれません。
 公演が終わり、大急ぎで撤収して、バスがとっぷりと暮れ落ちたハリコフを走り出たときには、満天の星空が頭上に広がっていました。

 同日 午前10時50分
 西田さんたちが別送品の通関手続きをしているのを待つ間、ようやく、空港近くのホテルのロビーの公衆電話から、キエフ市内のアクセスポイントに接続できました。

6月7日 午後4時15分(ウィーン時間) OS557便機上
 五人囃子はウクライナ・ツアーを終えて、今日、ウィーン発13時25分オーストリア航空557便関西空港行きで帰国の途につきました。搭乗便の関係上、昨夜はウィーンで一泊。久し振りにバスタブの湯に浸かって、汗と埃を流しました。東京到着は、関西空港での乗り換え時間を含め、明日(8日)の夕刻。
 6月5日以来、このページを更新する機会がなかったので、この機上と関空での待ち時間を利用して、旅の終わりを早急に報告したいと思います。
 ウクライナ最後の日は、結局、午後1時ごろまで空港で別送品の通関を待ちました。おりしも、クリントン米大統領がウクライナを訪れるとかで、午後1時すぎには空港からキエフ市内に向かう道路が閉鎖されるとの情報もあり、ギリギリのところでした。そして、一行が休憩に向かった空きアパートとは、じつは、キエフ滞在中にこのページの更新に通ったヴィターリさんの事務所とそれにつながる自宅。ヴィターリさん夫妻は自分の劇団のイタリア公演に出かけて、不在。つまり、我々12人はそこにウクライナ最後の宿を取ることになったのです。しかし、ヴィターリさんは自宅の中で犬を2匹飼っているので、居心地はけっして快適とはいえませんでした。
 最後の夜は、やはり宴会で暮れました。元ミミクリーチのメンバー、ハイフーラさんの家でのパーティは取りやめになったものの、ドニエプル河の遊覧船(日本で言えばちょうど隅田川の屋形船)を借り切ってのパーティは予定通り行われました。参加者は五人囃子のほかに、クリュコフさんの友人たち、サーカス学校で五人囃子がエクササイズをしたクラスの生徒たち、それにハイフーラ一家など。サーカス学校の生徒と五人囃子は、それぞれそパーティのために出し物を考え、お互いに披露し合いました。午後6時すぎにキエフ中心部に近いドニエプル河左岸から出港した船は川のなかの島に停泊し、再び乗船場所に戻ってきたときにはすでに午前零時近くになっていました。
 しかし、ともかく、我々を悩ましつづけた宴会も、それを最後に終わったのです。

<6月6日>この日、キエフ発15時25分OS616ウィーン行きで、五人囃子はウクライナを離れました。

6月8日 午前9時半(日本時間) 関西国際空港
 関西空港のビジネスセンターから、このページの最後の更新をしています。
 関空に到着したのは、今から2時間ほど前の午前7時半すぎ。でも、羽田への乗り継ぎ便の出発は、14時45分。なんと、7時間近くの待ち時間があるのです。
 今回の五人囃子のウクライナ・ツアーは、最後の最後まで待ちの連続です。しかし、五人囃子は、ウクライナで、いったい何を待ち続けてきたのでしょう?
 その答えは、まだ出ていません。
 メンバーのなかには、ウクライナ・ツアーの間に自分自身の将来の道を見つけ出した人もいます。また、楽しい思い出と数多くの記念写真を残した人もいます。
 でも、ウクライナですごしたこの1ヶ月あまりの時間が、これからいったい五人囃子に何をもたらすのか?
 あるいは、何が変わらないのか?
 その答えを出すのは、彼女たち一人ひとりです。

追記(6月21日)
ここから先は、ACC辻が報告致します。
五人囃子は6月8日にウクライナから帰国した後にすぐ、6月12日から6月19日まで一週間、仙台にて5回公演を行いました。ほとんど休むまもなく国内ツアーとなりましたが、大きな怪我もなく無事に終了しました。子供達の多い、親子劇場の公演となりましたが、皆の反応も良く良い舞台であったと思います。
 五人囃子の舞台もウクライナから帰国して、技術的にどうこうということではないのですが、少し何かが変わったような気がしました。その何かが何であるか?それが意識したものなのか、無意識な所から出てくるものなのかはわかりません。ウクライナ、仙台とツアーに同行した私もはっきりと理解できるところではないのですが、しかしながら舞台を観ていて何か心踊る熱くなるモノが多くなったような気がします。
 それにしても日本の劇場はあらゆる面でハイテクに感じました。ウクライナから帰ってきてそれは痛感しました。照明機器にしてもスピーカーにしても圧倒的に数が多いし、舞台も平らだし、時間に正確で本番中にオペ室でウォッカを勧められることも無いし・・・。帰国して2週間、でもそんなウクライナにどこか懐かしさを感じつつ・・・

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