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村長日誌(2001年7月)
★7月22日

7月17日、久しぶりに浅草から両毛号にのって、サーカス村に。
実は14日付けの上毛新聞の記事に、かなり誇張があったため、沢入地区の人々に物議をかもしていると言うことで、区長、議員の方々と話し合ったほうがいいと、関口さんから連絡があったため、急遽、東村にいくことにしたのです。
問題は、当協会が、村の条例に則って、沢入小学校の体育館を借用したことを、新聞には、校舎活用と言う文字が踊り、さらに四年制という文字が見出しに使われたこと、加えて議会側も承認とかかれていたため、村が沢入地区の人々の了解をもとらず一方的に、沢入小学校を、当協会に貸してしまったのか、と言う疑惑が生まれてしまったためです。
幸い、ぼくのほうで、事前に、区長、沢入21の三宅代表、松島議員に、条例に則って体育館をお借りすることになった旨、ご報告しておいたので、区長らとの話合いはスムーズにすすみ、議員、区長らのお名前で、事実関係を明確にした文章を地区の人びとに流してもらえることになりました。
とりあえず、暫定的に体育館を村から借用しての開校ということを、ここであらためて報告しておきたいと思います。
はっきりと体育館、校舎の一部をお借りして開校したいのはやまやまですが、とりあえず、来年3月までに地区の希望を明確に、という、役場の方針がある以上、これ以上、強くサーカス学校のために、貸してくださいとはいえません。
と同時に、来年3月まで開校を伸ばすこともできません。そこで、借用のかたちは暫定的なものであれ、その期間の活動を見て、地区の人々の理解を深めてもらうよう努力をしていきたいと考えています。

ところで9月1日 10時 開校式です。
参加希望の方は、ご連絡ください。

★7月21日

暑い夏が来ると思い出すのは、鹿児島で過ごした高校一年の夏です。
授業時間、うたたね寝をしていると、ぽたりと汗がノートの上に落ちるのです。
桜島がドカーンと爆発して、はっと目が覚める。ノートの汗の染みに気がつくのです。
東村は、勿論東京ほど熱くはありませんが、山の中だけに、時には、東京以上に湿度が高く、蒸し暑く感じることがあります。しかし、朝夕は涼しくすごしやすいです。
今、五人囃子のヨッちゃんが、キエフのサーカス学校から帰ってきていて、一人、自主トレに励んでいます。
7月17日、予定外だったのですが、帰村してきました。というのは、7月14日付けの上毛新聞の記事が、村で物議をかもし、とりあえず、ぼくの口から、関係者(沢入区長、沢入21代表、沢入地区議員)の方々に、事実関係を明確にしておいたほうがいいという関口さんの話で、帰村したのです。
問題の一つは、その記事の見出しに、旧沢入小の校舎活用、国内初の4年制と書かれた事。
それと、本文の中に”議会側も承認”と書かれている2点です。
すでに報告していますように、とりあえず借用したのは、沢入小学校の体育館であり、村(役場)が議員の集まりである全体協議会で、サーカス村から体育館の借用申請があり、それを受理したことおよび用務員室も借りたいとの要請があるので、村としては善処するつもりだという報告がなされ、議員からは、特に意見はなかったということを、議会側も承認とかかれた点です。
沢入地区、草木地区の一部には、サーカス村の来村を好ましくないと考えている人もいて、この誤った記事で、さらに反感を買われるのではないか、それを未然に防ごうという関口さんの話しです。
7月17日、1時半に、関口さんと区長の家に行きました。区長と沢入21の代表三宅さんに話をしました。
体育館をどのようなに借りることになったか、区長にも三宅さんにも、新聞が出る前に、ぼくが電話をしていたこともあり、お二方から、お叱りを受けることはありませんでしたが、この記事で反感を強めている人が出てきているとのお話がありました。
夜、松島・古田島両議員と話をしました。ここでも同じような意見が聞かれました。
そして、両議員、区長、沢入21代表の名前で、沢入地区に、事実関係を明確にした文章を配っていただくことで、とりあえずこの問題の沈静化を図るようしていただけることになりました。
7月19日は、山形市に青年商工会議所の招待を受け、講演させてもらいました。
そこで、サーカス村の話をし、この記事のことも触れました。
サーカスゆえに反対されている部分、よそ者であるがゆえに反対されている部分、それらの話をしながら、一つのことを根付かせていくことの難しさ、それと同時にそれをやっていくことが、ぼこに生き方担っていることを話させていたいただきました。
NPO法人を立ち上げ、新しいビジネスにチャレンジしている、若い方と話ができ、楽しかったです。
翌日、山形市で公演中の木下サーカスを見てきました。
演目は盛りだくさんで、スピーディな展開のショーです。
それにしても長原孝一・加代子さんがいないのは、やはり、なんともさびしいものでした。

★7月6日

今週は火曜日から、サーカス資料館に。サーカス学校開校のための最終調整に。
水曜日、事務所のACCから連絡あり。タミラからのfaxを転送するという。
というのも、実は、6月30日、ウクライナのサーカス学校から夏休みで帰ってきたヨッちゃんが、ぼくがガーンとショックを受けるような手紙を一通持って帰ってきたのです。
それが、タミラからのもので、タミラにシルク ドュ ソレイユからオファーがきたというのです。
そして、これを受けるかどうか、西田の考えを知りたいといってきたのです。
あ、またシルクだ、と、いささか生意気なことを言えば、そう思いました。98年、宝塚ファミリーランドでプロデュ‐スした中国サーカスの主要メンバーが、宝塚公演のあと、カナダに渡り、今、アメリカツアーをやっているドラリオンの中核を占めているのです。
しかもその演出が、宝塚でぼくが最初に日本初の創作サーカスをプロデュースした時に、演出を依頼した、あのギー・カロン。
というわけで、シルクに追いかけられているというか、かっこよく言えば、シルクの一歩先をやっているのだけど、今回、ここでタミラをシルクに持っていかれたら、作品を書いてまでして作り上げている”クラウネス・タミラ”は、どうなっちゃの、という気分になっていたのです。
返事は書きました。基本的にはタミラ自身で決めろ、と。
シルクに行けば、それは、ウクライナのクラウン志望の若い人びとの、希望の星になるだろう、とぼくは、タミラがシルクにいっても、その仕事が終わってから、もう一度、タミラとの作品つくりにチャレンジするつもりがある、と。
さて、タミラからの返事です。彼女はシルクの申し入れを断ったのです。
“クラウネス・タミラ”を完成させるというのです。
ぼくが天にも舞う気分になったのはいうまでもありません。涙がチョチョ切れました。
なんとしてでも、”クラウネス・タミラ”を、いい作品にしなければなりません。

さて、サーカス学校です。
予定通り、9月1日、開校します。
ただし、当初の予定通りには行きません。というのは、沢入小学校を長期に借りる契約は、一度、諦めなければならないからです。
とりあえず、来年の3月までの平日、沢入小学校の体育館を借用する申請書を、村役場に提出し、それを受理してもらったという、形での、サーカス学校の出発です。
それは、沢入地区住民総意のサーカス学校受け入れの決議が村役場に提出されない状況で、村役場として一方的に、サーカス村協会に沢入小学校を貸してしまっては、住民と摩擦をおこしかねないという判断からです。
住民総意といっても、サーカス学校受け入れを、地区総会で決議するわけではないので、反対するものがいるので、この件については、村役場に意思表明しないでおこうというものです。
サーカス学校の話しはなかったもの、というわけです。
ぼくはカフカ的状況に押し込められたような気がしました。
しかし村役場としては、なんとか、サーカス学校への道が開けないものか、という考えの人もいて、廃校になった学校が村の管理になった段階で、村の施設として貸し出しの規則を作り、それに見合う形で、サーカス学校(協会)にも、貸し出すという形を作ってくれたわけです。
で、沢入地区の人々には、2002年3月までには、もしも沢入小学校の使用方法があれば、それを提示するように求めています。
サーカス学校(協会)には、いわばこの試験期間に、住民に理解してもらえるように努力してもらいたいということなのです。
それは、五人囃子の育成は正しく住人に、サーカス学校を理解してもらいための活動だったのですが、それが十分ではなかったということになって、ぼくに跳ね返ってきたわけです。
しかし、これが現在の状況であるならば、何とか、この状況をかえていかなければなりません。
住民の理解を得るように努力していかなければなりません。
ささやかなサーカス学校の出発です。なにしろ先生1名、生徒10名以内ですから。
で、解決しなければならない問題は大きいのです。
サーカス学校を理解してもらわなければならないのすから。
しかし、なんとしてでもやりこなさなければなません。
それは、ここであきらめてしまっては、サーカスを、クラウンを大道芸を、それらの活動を、自分の芸術活動として行っていくことを、自ら、放棄することに他ならないからです。
まだまだ、ぼくはあきらめずに、何とか、沢入小学校のある地域、日本の地方のひとつである、この場所で、文化を育てていきたいと思います。
それが、ぼくのサーカスという文化に携わってきた責任ではないかと考えています。

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