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村長日誌(2002年1,2,3月)
★3月14日

昨日、シルクオーケストラに出演している矢野光一君に簡単なインタビューをすることができました。
都立高校を卒業後、バイトでお金を貯め、ペンシルバニア大学で心理学を勉強している時に、単位取得のために取ったダンスにはまり、専攻をダンスに変更するとともに、いろいろな先生にダンスを学び、テクニックを習得。
99年、モントリオールで、シルク・エロワーズが、今回の作品のためにオーディションするという記事を見つけ、勉強のために、受けてみたら受かってしまったとのこと。
彼の話を聞いているときに感じたことは、まず、彼はダンスのテクニックを身につけるという考えをしっかりもっていること。これが、日本の場合、ダンスにかぎらず、疑問に思うことが多い。
テクニックがない、さまざまなプレーヤーが多いということ。サーカス・アーティスト、大道芸、笑いの世界にも言える。このシルクオーケストラを作り上げるために、4カ月の稽古を、朝から晩までやったというが、これも耳の痛い話しではないか。

NHKBS2(3月9日)のフランス国立サーカス学校の青春を見た人は多いと思うが、金井圭介君の身体に凄く筋肉がついているのに、ぼくは、彼のフランスでの練習の姿を見たように思った。
日本にいては、あの筋肉は、つかなかったと思う。
ぼくらのサーカス学校でも考えなければならないことである。しっかりと自意識を持たなければならない。

先週、ぼくはフクちゃんと一緒に、今度は入ってくる生徒のために借りた家の修理を、スギ花粉の舞う、東村で行っていた。都会のワンルームマンションではない。汲み取り式トイレの一軒家である。
破裂している水道の蛇口を変えたり、とれたドアの修理をしたり、、、。トイレの掃除。ETC。 それらのことは、サーカス村、サーカス学校の活動とは無縁ではないのだ。

 
★3月7日

あ、日記を書くのを忘れていた、と、気がつく。前に書いた時から何日もたっているではないか。
小学生の夏休みの日記よりひどい。笑えない話しです。
この間、わたしは新らしい会員になってくださるよう、古い友人や新たにお知り会いになって下さった方々に、会報・お手紙をお送りしていました。少しずつですが、会員になってくださる方々がいらっしゃいます。
本当にありがたいことだと感じております。
現在、約250名の方々に会員になっていただいておりますが、より多くの人びとに会員になってくださるように、働きかけていくつもりです。
ところで、ナジェルダ先生は、3月16日に戻ってきてくださる予定です。
後期授業は18日開始。生徒は10名になります。
これから暖かくなってきますので、活気ある練習ができると思います。
次の目標は、生徒数30名へ。毎年10名ぐらいずつ新しい生徒が来てくれると、ありがたいと思っていたのですが、できれば一気に、30名へ。というのは、その授業料で、もうひとり先生に来てもらいたいな、と考えるようになっているからです。空中モノの先生が欲しい、と。
これは、今の若い人びとのなかに、かなり、空中モノをやりたい人がいるように見受けられるからです。
勿論、といって、基礎体力作りをおろそかにするつもりはありません。キチンと基礎体力を作り、そして空中へチャレンジする人を育てるつもりです。

★2月15日

皆さん、ごぶさたしております。すみません。
2月8日から4日間、京都で、京都アルティ・ブトウ・フェスティバル公募公演を見ておりました。
4日間に、24本のダンス。6時から9時まで。その後、アフタートークというのがあって、毎日6時から11時前後まで。相当にしんどかったですが,いろいろな意味で、収穫もありました。
ひとつ、ダンサーたちは、サーカス学校の今の生徒たちより、体を鍛えているぞ、ということ。
演劇を目指す人を含めて、今、身体を使って表現する人たちの中で、スポーツは別にして、ダンサーが一番、身体を鍛えているような気がします。ぼくらとしては、がんばらなくちゃということです。
その1.作品を見た後のトークで、司会者側のパネラーというか、評論家、先生方が、ダンサーに作品の作り方などを聞くのには、いささか、がっかり。
作品を見た後は、自分がどのように感じたか、その気持ちを大事にしたい。
まあ、一層のこと、トークに出なければいいのですが。
それにしても、見た人の気持ちを壊すようなトークは望ましくないと思った。
ここでも、あのユニバーサル・スタジオの模型のジョーズを見せられ、映画を見た時に味わった恐怖が、サーッとしらけていくのと同じような気分を味わうとは思わなかったのです。
トークといえ、批評なのですから、多少とも創造的に話したいと思いました、はい。

★1月20日

久しぶりに、冬の東村でのんびりしています。18日に帰村。雪はありません。
今年は暖かな冬だと、村人は口にしています。わたしが東村に足を運ぶようになって、10年以上の歳月が流れていますが、今年は特に寒いなと聞いたことはないと思います。
とはいえ、山間部の村ですので,都会よりは寒いのはいうまでもありません。
昨日は、春から来る生徒のために、空家を見てまわりました。2軒ほど借りれそうなので、ちょっと、ホッとしています。但し、しばらく人が住んでいなかったので、手入れ、掃除が必要です。
3月は、まず、住居の手入れからでしようか。
明日から、穂高、名古屋、関西へと足を伸ばすつもりです。今後のサーカス学校の運営を含め、諸先生がたと懇談、ディスカッションできればと考えての小旅行です。
私自身の今後についても、いろいろ、考えることができればと思っています。
村からの沢入小学校の借用の形ですが、春にははっきりするのではないかと思います。
改めて、体育館、校舎の一棟、用務員室を無料で借用させていただく書類を提出するつもりです。
また、運営費の確保も必要なので、できる限り多くの方に会員参加していただくよう努力していくつもりです。
それに、これまでの練習を見てきて感じるのは、ナジェルダ先生のキエフのサーカス学校など、海外のサーカス学校の練習に比べて、まだまだ厳しさが足りないことです。といって、厳しければよいというのもではなく、その厳しさを自分たちで求めるようにしなければなりません。
そのためには、実際に、海外のサーカス学校ではどのような練習をしているかを知り、そのようなものを自分たちも求めているかを確認する必要があると思います。といって、生徒を海外のサーカス学校に見につれて行くことは金銭的な意味でも無理です。今、考えているのは、ナジェルダ先生の娘さんに6月中旬から3ヶ月ほど来てもらい、練習の仕方、彼女自身の力量を見てもらうことです。
ナジェルダ先生の指導で、どのような技量が身につくのかを見てもらいたいからです。

★1月3日

迎春 2002年
皆様方におかれましては、新年を寿がれていると存じあげます。
さて、昨年暮れ、19日から29日まで、ウクライナへ行ってきたことを報告します。
ウクライナの首都キエフに着いたのは、19日の深夜。入国の書類を書き、税関のスタンプをもらって、外に出たのは私が最後でした。というのは、他所の国から、この時期、ウクライナに入国したのは、私ぐらいしかいなかったのかもしれません。
ドアの外に出ると、クリューコフ(五人囃子の演出家)が、ポツンとたっていてくれました。彼の小型車でキエフに。大量の雪が積もっているわけではありませんが、あたりは雪景色。
道路は凍結。その凍結道路を100キロ近いスピードで走るので、かなりのスリル。途中、スタンドによって、不凍液を一本、ラジェイタータンクに。
クリューコフの家に着きました。彼の子息ボーバ(12才)は、すでに寝ていました。
その横の食卓で、早速、ウオッカで再開の乾杯、4、5杯で止めましたが。
奥さんのナージャさんはいません。なんでも、すでに、明後日”女道化師・タミラ”のおこなわれる公演地に行っているとか。
翌日、”女道化師・タミラ”の公演地に、クリュ‐コフのバスで向かう。
バスに乗り込むと、いつも運転してくれるボーバの他にスタッフ2名。後でわかったのですが、一人はマラドイ(新しい)劇場の照明の方ともう一人は運転手の方でした。
バスでぼんやり待っていると、タミラとよっちゃん登場。出発です。
約10時間。南東に300キロ強、キエフから離れたカミニエッツ・ポドリスカに到着。ホテルに。残念ながら、部屋にトイレ、シャーはなく、階ごとにあるトイレ、シャワーは水もお湯も水も出ないので、軽い食事を済ませて、ベットに。ほぼ着の身着のままでもぐりこみました。
翌日、10時過ぎに劇場へ。仕込みに入りました。照明は悲しいほど少ないのですが、去年、五人囃子のツアーで、この国の劇場の現状を知らされているので、それほど驚きません。とにかくあるもので、なんとかしなければなりません。
クリューコフは、何本かのライトをバスに乗せていました。
2時過ぎ昼食。6時公演。500ほどの席は7割の入り。まあまあではないか、と思えました。
公演は、この21日と22日の2回。舞台のできは初日より2日目が圧倒的に良かったのですが、初日も2日目も拍手はいっぱい。
まずはホッとしました。ただ、音楽の一部が悪いのと演出的にも気になるところがあり、もしも、日本にもってこれるのであれば、一部手直しをしたいと思いました。この件ではキエフに帰って、ビデオを見ながら、タミラとかなりディスカッションできましたが。
22日は、ぼくの誕生日。キエフへの帰り道、ウクライナのドライブインで、お祝いしてもらいました。
この日の朝、タミラがかわいらしいオルゴール人形をプレゼントしてくれました。当然、この人形の名前はタミラです。
ここ、カミニエッツは石の街。古城というか石の要塞があり、この街はトルコやポーランドなどに再三侵略されようです。
それだけに、同じ地域にイスラムの寺院ありキリスト教の教会あり、さらにロシア正教の教会ありで、今は争いもないとのことなので、なにか考えさせられる想いでした。
要塞や教会を説明してくれた、この街の文化部の女性の話に、この街の守り神がマリア様だと聞き、早速、クリューコフに、同行してくれた、この街のナンバー2だという方に、この街で女性クラウンのフェステバルのやりませんかと提案したら、と、耳打ちしました。
そんなこんなで、カミニエッツの公演は上手くいったのですが、1,000名以上の観客が入ったにも関わらず、赤字。なにしろチケットが安いのでした。3グリビナ、約70円です。安いといっても、高ければ、チケットを買えるお客さんが激減するという仕掛け。約500ドルほど使い、約4400ドルほどの入金。クリューコフは約100ドルの赤字ということになります。
さて、話しはかわりますが、ただいまキエフサーカス学校に通っているよっちゃんは、ますますたくましくなっています。
そして、本人のやる気はますます充実。できれば、ソロの公演を行いたいと考えているようです。
もう一つは、タミラから、彼女のクラウングループである”ウリババ”に参加しないかと言う提案です。 このグループに参加するということは、ウクライナ国内を巡業するサーカスに参加することを意味します。すばらしいことです。
サーカス資料館を作り、五人囃子を作り、サーカス学校をつくってきたのは、いうまでもなく、世界のサーカスリングに立つサーカス・アーティストを育てることです。
その夢が早くも叶えられるかもしれないということです。
人が育って欲しいという目標は予定通りできるものではありません。
五人囃子は、日本に本格的な女性クラウングループがいないので,それを何とか作りたいと考えていました。そして、上手くいけば、五人囃子の海外公演が外国からの依頼でできないかな、と考えていました。
そのために、キエフの五月の芸術祭に参加しました。その結果、2ケ国から、それぞれの国のフェステイバルに参加してくれとの要請を受けました。しかし、渡航費の問題があります。
しかしその問題を解決する手立てを考える前に、五人囃子のメンバーが解散の道を選んでしまいました。
しかし、そこから、一人で劇場クラウンを目指そうというナナが誕生し、よっちゃんがキエフサーカス学校へ留学するという、新たな芽生えがありました。女性クラウンが海外からの要請で、しかも仕事としての公演を行うという目標は、しばらく寄り道をしなければなりませんが、しかし、その目標が見えなくなっているわけではありません。
これまでの活動の中で、その目標は可視の状態にあるのです。五人囃子を作るまでは、誰も考えなかったことです。
よっちゃんの場合もそうです。
よっちゃん自身、まさか自分がこんなに早くサーカスのリングに立てるとは,考えなかったでしょう。
しかも、外国のサーカスのリングです。
よっちゃんばかりではありません。日本のサーカス・クラウンに関係している人びとで、日本の女性クラウンが世界のサーカスの舞台で活躍することを想像したことがあるでしょうか。それが現実に起ころうとしているのです。
さまざまな、新しい出来事が起こっています。そして、そこに日本のサーカス・クラウン文化に、新しい潮流が流れ始めているのです。
もちろん、多くの大道芸パフォーマーが、これまでに日本になかったストリート・パフォーマーの文化を育てつつあります。その道はいろいろあると思います。
あるいは、私たちが試みている方法、その考え方は古臭いかもしれません。しかしサーカス文化と言うものがある以上、そのフィールドのなかで、ひとつひとつ、芽が出て、それが育っていくようにしたいのです。
実際にストリート・パフォーマンスを行っている人々が、自分たちは、流行のアートをやっているのだと考えているかどうかは別にして、もしもそれが流行でしかなければ、やがて、それは下火になることもあるでしょう。
サーカスの世界も、どうにもならないほど、人気を失ったこともあります。
そのころ、サーカスを知ったぼくがそのサーカスをなんとかしたいと考えた時、ある有名なカメラマンが、”滅びゆくものをなんとかしようとするのは、誤りだ”と言われたことがあります。
以降、ぼくは、その人のカメラマンとしての仕事を”ハイエナの仕事”と考えるようになりました。そして、サーカスの再興を夢見て今日まで来たわけです。
ストリート・パフォーマーがこれほどたくさん日本に生まれてくるなど、ぼくは、思ってもいませんでしたので、ぼくにも、大きな見通しの誤りがあったわけです。
しかも、そのストリート・パフォーマンス文化が、ぼくらの仕事に大きく貢献しているのも事実です。
さまざまな力が作用しあって、ぼくらの仕事に風が吹いているのです。勿論、明日はわかりません。それだけに、実はサーカス文化というフィールドのなかで、自分たちがなにをやっている見極めながらやる必要があると考えているのです。
ウクライナ報告から、道をそれてしまいました。今回は、日記と言うよりは、ぼくの考え方を明らかにするようなことになってしまいましたが、今後の活動を行っていくために、自己確認をしたのだ、と、このおしゃべりをお許しください。

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